大人になって好きな人ができなくなる現象について、その3つの理由
——完璧主義と自己防衛から抜け出すために
「なんか好きになれない」最近私の周りでよく聞く言葉である。みんな、心では誰かを好きになりたいと切望しているのに、好きな人ができない。彼らの理想が、決して高すぎるわけではない。外見が好みでいいなと思う瞬間はあっても、そこから先へ進めなかったり、お試しで付き合ってみても結局気持ちが追いつかなかったり……。
「なぜ、あんなに情熱的だったはずの『好き』という感情が動かなくなってしまったのか」
今回は、現代の迷える私たちが陥りがちな3つの罠を整理しながら、その処方箋を考えてみたい。
完璧な相手を探そうとしていないか
20代も半ばを過ぎれば、それなりに恋愛のサンプル数は積み上がってくる。恋愛という営みの終着点は、一般的には「結婚」か「別れ」の二者択一であり、結婚という契約に至らない限り、別れという形式になるわけだ。
別れを選択する動機は人それぞれだが、相手への不満が原因である場合、「次は、この不満を再発させない相手を選ぼう」と、次の選定基準をアップデートしてしまう。しかし、前回の欠点を克服したはずの相手を選んだとしても、往々にして別のベクトルから新たな不満を抱いている自分に気がつく。結局、自分の理想を完璧に満たす人間などこの世には存在しないのだ。
しかし、そもそも恋愛は理想の個体を探すためにあるわけではないことを思い出してほしい。人の性質は、何かを補えば何かが削れるという単純な足し引きで構成されているわけではなく、多面的なものであるということに気がつかなければ、相手が変わっても同じことを繰り返してしまう。
恋愛が自分の価値を測る装置になっていないか
本来、恋愛で生まれる「好き」は、相手を知りたい、相手を大切にしたいといった、対象へ向かう欲求である。ところが恋愛が「自分が愛されるか」「価値があるか」「大事にされるか」を確認する場になると、関心は相手ではなく自己評価の維持に移る。そうなってしまうと相手は血の通った一人の人間ではなく、自分の市場価値を測るための「判定装置」に過ぎなくなるわけだ。相手の言動一つ一つに一喜一憂するのは、相手を愛しているからではなく、自分の価値が損なわれることを極端に恐れているからに他ならない。この状態において、好意を抱くことは自分をさらけ出すリスクでしかなく、自尊心を防衛するために心を閉ざすのは、ある種ロジカルな防衛本能と言える。
しかし、傷つくことを恐れて自己防衛に終始している限り、好意の前提条件である「相手への純粋な関心」が成立することはない。鏡を見て自分の顔色を伺っている間に、目の前の相手の輪郭は見失われていくからだ。
恋愛を自己証明の場から切り離し、自分を判定される恐怖から一度距離を置いて、相手を「自分を承認してくれる道具」ではなく、ただの一人の人間として観察できる余裕を取り戻したとき、ようやく「好き」という感情が本来の行き先を見つけるのではないだろうか。
求める人と場所のミスマッチ
そもそも出会いが少なかったり、出会いの質が悪かったりするのは、個人の魅力というより環境の問題である。
毎日決まった人としか顔を合わせない生活を送っていれば、新しい感情が動きにくいのは当然といえる。一度「友達」や「同僚」として認識してしまった相手を、後から異性として見直すのは、特に女性は難しいらしい。よほどのハプニングでも起きない限り、一度定まった関係性のフォルダを書き換えるのは、心理的にかなりの無理があるわけだ。
出会いの「質」についても、理想と場所のミスマッチが起きている。「真面目で誠実な人」を求めているのに、恵比寿横丁やクラブに行って、チャラいと文句を言ってもそれは当たり前のことなのだ。そんな場所にも稀に素敵な人はいるのかもしれないが、それは膨大な人混みの中から一人を探し出すような、途方もない宝探しになってしまう。
異論はあるだろうが、恵比寿横丁やクラブは、あくまで「その場のノリを楽しめる人」が集う空間だ。腰を据えて本気で向き合える恋人を、落ち着いて見極めるための場所ではない。いい人がいないと友達に愚痴をこぼす前に、自分が選んでいる場所に自分の求める相手がいるのかを、見直すべきである。
理想の解体と、他者を受け入れる余裕
結局のところ、恋愛は「加点方式」か「減点方式」かという議論以上に、多面的な要素が絡み合って決まるものなのだと思う。
見た目が好みであれば、多少のルーズさは「人間味」として許せてしまうかもしれない。驚くほど優しければ、経済的な不安を二人で乗り越える活力になるかもしれない。どれほど完璧に見える人でも、深く付き合えば必ず欠点は見えてくる。逆に言えば、あなた自身の欠点もまた、誰かにとっては「愛嬌」なのだ。
「好きな人ができない」という呪縛を解く鍵は、自分にとっての「絶対に譲れない軸」を決めること。それ以外の部分は、完璧を求めず、大目に見て流してみる。そして何より、自分を判定される恐怖を捨てて、求める相手がいそうな場所へ一歩踏み出してみることだ。
「完璧な相手」という実在しない正解を追いかけるのをやめたとき、ようやく目の前の人間が、ただの不完全な一人の人間として正しく見えてくる。欠点がない人を探すのではなく、その人の持つ「ままならなさ」を含めて、自分がどこまで受け入れられるかを測ること。そうやって自分の理想を現実的に見れたとき、ようやく「好きな人」という定義が成立する余地が生まれるのだ。